いちもん 第71号 掲載作品 前の作品へ 次の作品へ 目次へ
 日本にいた放送機の神様
中田  薫  


 その人の名は島山鶴雄。明治三十九年に生まれ、平成十七年まで百年を生きた。幼い頃すでに算術の神様と呼ばれていた。北九州小倉城主小笠原氏の藩校であった豊津中学を卒業し明治専門学校(現在の九州工業大学)に入ってからは無線通信の勉強に没頭。昭和二年卒業後日本放送協会に入り、技術講習のあと昭和三年開局を目ざしていた熊本放送局に配属、マルコーニ製一〇キロワット放送機の設置に主任として携わる。以来国内の放送機のほとんどすべてを手がけた。五十五歳でNHKを退職してからは、イラン・ザヘダンの一〇〇キロワット放送機を大改造、信頼性を一気に高めパーレビ国王から勲章を授与された。
 抜群の記憶力、卓抜した着想、応用と普遍性の追求。人は彼を放送機の神様と呼ぶ。

(一)
 昭和十二年七月七日、北京郊外蘆溝橋で日中両軍が衝突、長期に亘る泥沼の戦争が始まった。当時「事変」と呼ばれたこの戦争の調査のため、島山はアナウンサーの友安義高とともに上海に出張を命じられる。事変が勃発してわずか二ヶ月後のことだった。以後翌年三月の帰還まで、友安アナウンサーとともに内地に向け戦況を送り続けた。
 アナウンサーの友安は陸軍士官学校出身の予備中尉。昭和八年に名古屋放送局、同十二年に東京の報道部に転勤すると同時に上海出張となった。父親は日露戦争の第四軍後備歩兵第一旅団長友安治延少将である。
 
 島山が上海に渡った九月、前月上陸したばかりの日本軍は中国軍の激しい抵抗に遭い、一日百メートル進むのがやっとという厳しい状況の中にあった。上海を落とすための新たな作戦が緊急の要請となっていた。
 島山は上海軍司令部金子少佐のもとで嘱託として報道業務に従事することになった。従軍報道は、放送の場合、以下の手順で行われた。上海で友安アナウンサーの前線リポートをまず円盤に録音、それを船で長崎に送り全国に放送する。日本で初めてのスタジオ外録音放送である。
 当時、録音を使った放送は始まったばかりだった。前年八月のベルリンオリンピックで、加西三省アナウンサーによる女子二百メートル平泳ぎ決勝の名中継は、有線と無線の三段中継で日本に送られたが、ドイツはすでに六十台以上の録音機を駆使して立体的な放送を展開していた。一年経っても、日本にはまだ信頼性の高い録音機がなく、わずかに一台、ベルリンで注文してきたテレフンケンの円盤録音機が東京放送局で使われ始めたばかりだった。
 このままでは戦況を確実に伝えることができない。島山は長崎放送局斎藤基房技術職員の製作した手作りの円盤録音機に目を付けた。テレフンケンの録音機をモデルに、のちに日本電波と電音によって国産化が図られることになるが、それは翌年のことである。しかし、放送に於ける録音機の可能性をにらんで、放送技術者たちはすでに自らの手で試作を始めていた。その斎藤製自作録音機を島山は試したのである。これなら戦場でも使える! 島山はただちにそれを借りることにした。
 放送史的にも貴重なこの局外録音放送には、微笑ましいエピソードがある。円盤録音では、カッターを使って円盤に音の振動を刻んで行く。磁気録音と違って録り直しがきかない。NGの円盤はそのまま廃棄になる。島山はその廃棄円盤の余白に、長女の陽子さんに宛て声のたよりを吹き込んだ。
「おとうさんは、いま元気で放送のお仕事をしています。陽子もおかあさんのいうことをよく聞いて、いい子にして待っていなさい。元気でね!」
 二十五センチの円盤を、彼女は今も大切にしている。

 上海戦線は膠着していた。日本軍は攻めあぐね、犠牲者も増え続けた。すでに中国では抗日民族戦線が成立、中国軍は日ましに力をつけていた。一刻も猶予はならない。新たに着任した下村定作戦部長は、十一月上旬、上海南部の杭州湾に最強の北支柳川兵団を上陸させ側面から襲わせるという作戦を立てた。
 近代戦の要諦の一つが宣伝作戦である。現地の参謀は島山の着任に「宣伝の専門家が来てくれた」と喜んだが、ある日宣伝部会議に招き情報打開の良策を尋ねた。宣伝と言えば日本には広告気球の技術がある。大正初期から使われ始め、いまやどこの百貨店も、屋上にアドバルーンを上げ大売り出しの宣伝をしている。これをうまく使えばよい。島山の提案が採用された。一週間ほどして日本からアドバルーンが送られてきた。この大きさなら三百メートル先からも文字を読むことができる!
 ところがアドバルーンを上げる技術者がいない。たまたま音楽家の堀内敬三が従軍していた。アメリカの大学を出た堀内は、語学力を生かし多くの外国歌曲の訳詞を手がけて有名だが、日本の放送開始当初から、講演や作曲、音楽評論などで放送界でも活躍していた。彼はまた、マサチューセッツ工科大卒の技術者でもあった。
「私は機械エンジニアで、島山は電気エンジニアだ。協力してこのアドバルーンを上げようではないか」
 十一月五日、満を持していた柳川兵団は杭州湾上陸を敢行した。一報が届くや直ちに島山と堀内は「日軍百万杭州北岸上陸」と大書したアドバルーンを、前線から二百メートルの所に上げた。中国軍はこれを見て直ちに退却、日本軍は六日後の十一日、上海を完全に制圧した。
 
 戦線での限られた時間内の機材設営、通信兵との協力、撤収と搬送、瞬時の対応力‥‥、島山の能力が遺憾なく発揮された七ヶ月だった。帰国後その功を認められ、三十二歳の島山は勲六等瑞宝章を受けた。

(二)
 昭和十三年五月、島山は新郷放送所に着任した。上海から帰還後二ヶ月のことである。
 新郷放送所は、その十年前=昭和三年五月二十日に完成した。それまでの愛宕山からほぼ真北、直線距離で十八キロの埼玉県北足立郡新郷村赤井にある。出力一〇キロワットは、当時としてはまさに驚異に値するもので、世界で五指に入ると言われたほどだったが、わずか十年足らずで役目を終え、昭和十二年暮に完成した川口鳩ヶ谷放送所にその地位を譲っていた。
 島山は、空き家になっていた局舎を使い、放送機の製作を開始した。

 最初の仕事は、広島と熊本に新しく設置することになった一〇キロの放送機である。まず必要なスタッフを集めた。設置局の広島、熊本から四〜五名、そして地元から高等小学校卒業の二名。必要な真空管や電源部品などはすでに揃えられていた。
 このとき島山は心に期すものがあった。
 日本最初の放送機は、GE製の無線電信電話装置を改造調整したもので、出力わずか二〇〇ワットだった。愛宕山からの本放送はウェスタンの一〇六A型で一キロワット、その後全国の拠点局にマルコーニのQD一三という一〇キロワット出力の放送機が配置され、大電力化が急速に進んでいた。島山が新郷に着任した昭和十三年頃、ラジオの放送機は日本放送協会の指導のもと各メーカーで作られていたが、いずれも前例と勘に頼るところが多く、なかなか期待通りの出力を得られないばかりか故障も多かった。これからは性能が良く故障の起きない放送機を短時間に作らなければならない。そのためには理論的にしっかりした設計、製作、調整が欠かせない。
 島山がそう考えるには、小倉勤務時代の貴重な経験があった。
 初任地熊本でマルコーニの放送機の故障対策に奔走していた頃はそれほどでもなかったが、つぎの小倉では不安定な放送機を使いこなすのにさんざん苦労した。
 メーカー製の一号機とも言えるものだが、音声が悪く故障も多い。その上真空管がすぐに切れてしまう。放送という過酷な用途にはとても耐えられるものではなかった。きちんとした測定から始めたいが計器がない。まず必要な測定器づくりから始めた。オーディオの特性を測る発振器、三ボルトから数千ボルトまで測定できる真空管電圧計、変調度測定器、放送機の性能を測るカソードレイオシログラフ‥‥、十種類の測定器を揃え、二年がかりで放送機を徹底的に調べた。まず故障が起きないようにし、百%の変調が可能になるよう特性を改良した。あわせて、真空管の寿命もフルに発揮できるようにした。
 基本は測定にある。このとき島山は放送機技術の基本を会得したのである。

 新郷放送所での仕事が始まった。
 島山はまったく新しいタイプの放送機を考えていた。出力回路にπ型回路を採用しようというのである。放送協会の本部に小池という優秀な技師がいて、その年の六月、雑誌にこの回路の設計理論を発表していた。この理論を使えば、回路損失の少ない高能率の放送機を、きわめて簡単な計算で設計できると島山は確信した。
 当時、世界の放送機は、ほとんどが電力増幅器の出力とアンテナを電磁結合させ、一次コイルと二次コイル間の距離を変えることによりアンテナ出力を調整していた。便利な方法なのだが、高調波が出過ぎるという欠点がある。試みにπ型にすると高調波が減り回路損失も少なくなる。島山は躊躇なくπ型を選んだ。
 ついでながら、その後この回路の優秀性が世界に知れ渡り、昭和二十五年頃には世界の放送機のすべてがπ型を採用するようになった。
 この一〇キロ放送機にはもう一つ画期的なアイディアが施されていた。
 それまでの放送機は、動かすのに五〜六人の技術者を必要とした。電源を投入するのにまず電力室にいる一人がモーターを回す。音声の調子をするためにスタジオ横の調整室に人が要る。放送機にも各ブロックに数人の技術者を配置しそれぞれのスイッチを入れなければならない‥‥。そこで、メインのスイッチを押せば自動的にすべてのスイッチが入るようにした。上司から「そんなことをしたら技術者の数が減ってしまう」と嫌みを言われたが、一人で操作できるというメリットは計り知れない。何より現場の安全にとって大きな意味がある。メンテナンスにも問題はなく、それどころかブロックごとに分けられているため修理に必要な場所をすばやく探し当てることができ、緊急のトラブルにも有効だった。
 一つだけ笑い話がある。すべてが完成し、所定の位置に据え付け動作を確認して帰ったのだが、放送所の技師が机を叩いた途端に機械が止まってしまった。調整盤のネジがゆるんでいたためとわかり大笑いで済んだのだが、それ以外にはほとんど故障も出ない優秀な機械だった。

 昭和十四年(一九三九)、川口大電力放送所の本放送開始にともなう組織改正により、新郷放送所は予備放送所ならびに技術局新郷工作所となった。
 翌昭和十五年、日本を取り巻く情勢はさらに困難の度を深めていた。日中戦争はいまだに解決の見通しがなく、松岡外相はドイツとの連携を一段と強めていた。大東亜共栄圏が声高に謳われ、国民の組織化が進められた。二月十一日の紀元節には全国十一万の神社で記念の大祭が開かれ、十一月には宮城前広場で五万人を集めた紀元二千六百年奉祝式典が挙行された。
 次々に開発される兵器名に、皇紀年の末尾二桁がつけられたが、この年には「重装備・最長航続距離」を誇る「○○式」つまり「零式」戦闘機が登場した。放送機の分野でも、この年開発されたドハティ増幅の新型機が「二六〇〇型」と名づけられた。小型高性能で資材も少なくて済む優秀機だが、この放送機は動作原理を知らないと調整・保守ができない。しかもドハティ増幅回路は理論的定数を決めないと働かないという、きわめて難しい機械である。一計を案じた島山は工作部長に掛け合った。
「これまでの放送機は原理を知らなくても設計技術がなくてもそれなりのパワーが出た。しかしこのドハティは理論的に調整しない限りうまく働かない。私が講義をするから、全国から担当者を集めてほしい」
 第一回の講習会は翌八月に開かれ、全国から五十人が参加した。新郷工作所で三週間、放送機の理論的な設計・製作・調整を学ぶという長期講習だった。カットアンドトライが当たり前で周波数を変えるにも数週間かかっていたのが、この講習会を利用すると数時間でそれが可能になる。非常に便利で講習の効果が大きいというので、その後、全国巡回を含め十年間続いた。
 自分だけが心得ているより、多くの人にその方法を会得してもらう方がずっと効果がある。分かりやすく教え、聴く人の身になって話す‥‥。やがて「島山学校」という名で全国に知られることになる指導システムは、この新郷工作所でスタートしたのだ。

(三)
 きれいな電波を出すのが何よりの使命と考えていた島山にとって、サイパン陥落後の仕事ほど辛いものはなかったろう。B二十九の容赦ない爆撃、飛行機は放送局の電波をたどってやってくる。さらに厄介なのは、アメリカがパラオに五〇キロの放送機を据え付けて日本国民に降伏をすすめる宣伝放送を始めたことだ。それを防ぐため同じ周波数で雑音を出す。いわゆる防遏放送が緊急の要請となってきていた。
 新郷には工作所で作った一〇キロの放送機があったので、これを使って雑音放送を出した。他の放送所にも指令が来たが、これだけの出力のものを急には作れない。新郷では、フル回転でこの要請に応えた。一〇キロのものを六台、五〇〇ワットのものを十〜十五台作った。いずれも敵の攻撃から守るため堰堤壕に設置できるよう背の低い設計にした。
 しかし雑音放送とはいえ、電波を出す以上、発信源が探知され攻撃の危険にさらされることに変わりはない。さらに地下放送所を作ろうという構想が動き始めていた。

 物資はすでに底をついていた。放送機の命であるコイルや可変コンデンサーなどもすべて手作りしなければならなかった。
 コイルは径五〇ミリの銅のパイプを五〇センチの円筒状に捲いて作る。ふつうに捲いたのでは滑らかに行かない。たちまちデコボコになり、なかなかきれいな円筒コイルにならない。パイプに松ヤニを封入してから曲げるというアイディアを出した者がいる。何とか真円に近づけようと全員で知恵を絞った。巨大な空気コンデンサーはアルミ板を切って、まず組み立ててみる。うまく動くことを確認し、それを元のように分解する。各部をきれいに磨き上げた上、それを再び組み立てる。
 細かい消耗部品はとりわけ大切だった。のちに島山とともに技術研究所に移り、宇宙中継でリレー衛星が故障するという厳しい局面で、島山の教えを頼りに乗り切った石田福松がこう語っている。
「ものを大切にすることを徹底的にたたき込まれました。ビスやナットなどの小物部品が一個でも落ちていると注意される。うるさいから今のうちに捨てておこうとゴミ捨て場に持って行くと、あくる日に雨が降って重い金属部品が顔を出すのです。怒られましたねぇ」
 戦時中のことで川口あたりの町工場の方が給料が倍も良かったのに、行かなかったのは島山に部下を惹きつける力があったからではないかと石田は言う。
 厳しいばかりではない。同じく少年期から青年期にかけて新郷工作所で薫陶を受けた土屋弥右衛門は島山の一面を次のように語る。
「非常に大らかな方でした。大詔奉戴日に島山さんが玄関の前で詔書を読まなければならない。ところが読みながらMボタンをかけ直したりするのです。最初の『詔書』のアクセントに特徴があって『ショーショ』と始めたとたんに、だれともなくクスクス笑い出す。『いま笑ったのは誰か、坂の下まで駆けてこい!』私なんかその一人でしたがね‥‥」

 きつい仕事の続いた週末は、同じ敷地内にある宿舎に部下をよび労をねぎらった。
 裏庭は畑になっている。この時代、ほとんどが自給自足の毎日だった。ジャガイモ、さつま芋、トウモロコシ‥‥、麦は脱穀までやった。芋の蔓は干してヤギのえさになった。乳搾りは島山の仕事だった。乳は家族の重要なタンパク源になった。
「小学校一年のとき肺門リンパ腺炎にかかったのです。そのとき草の匂いのするお乳を飲みました。私はヤギのお乳で治ったようなものです」
 と二女のみどりさんは語っている。
 ほかにニワトリが十羽ほど飼われていた。部下を連れて来る日には、庭先にニワトリが逆さに吊られていた。

(四)
 平成十三年八月、文化放送の赤井放送所で、ある発掘作業が行われた。
 八代将軍吉宗の命により引かれた見沼代用水と首都高速川口線に挟まれた小高い丘、ここにかつての新郷工作所があった。建物はいまも文化放送の倉庫として残されている。放送機室、職員の宿直室、配電盤、高圧電力の取り込み口などが当時の面影を漂わせる。
 島山は朝から発掘作業を見守っていた。
 広大な敷地の南端、正門から緩やかな坂道を上がった右手が発掘現場だ。桜並木がとぎれるあたり、夏草がそのあたりだけ薄いように感じられる低く平らな一角がある。地面からわずかに顔を出したコンクリートの周りを、すでに小型のパワーショベルが掘り始めている。
「ここが階段だ! 穴が空いている。酸欠空気が危ないからファンを回せ!」
 一足先に石段を腰の辺りまで降りた作業員が大声を上げる。
 熱い日差しの中、まどろむように、島山は五十六年ぶりに再会する地下秘密放送所の思い出をたどっていた。
(‥‥堰堤壕のときには、短波に改造した昔の鉄塔アンテナを使ったが、地下壕を掘る頃には木の柱にアンテナ線を張っていた。放送機はできるだけ高さを低く作った。狭い入口から地下に入れなきゃいかんのだから。とにかく資材がなかったなぁ。放送機を組み立てるのにアングル一つない。旧い放送機を解体して、そのアングルをつなぎ合わせた。全国向けにも作ったが、それにしてもお粗末な機械だった。どこからでも手が入ってしまうような。‥‥高圧回路があって危ないのに)
 あらゆる資材が供出を余儀なくされる時代、全国二十機分もの資材を確保し得たのは島山の功績である。営業手腕と言えるかもしれない。ポンプのパッキングが壊れて動かなくなる。ポンプ屋にバルブを買いに行くと、そんなものあるはずがないと断られる。野菜を売ってくれたら用意すると言っていたのを思い出し、すかさず野菜を持たせて買いにやる。そうやって資材を集めた。
 何よりもまずパーツを確保する。技術はその先にある。島山のやり方を工作所の全員が理解していた。チームワークがしっかりしていた。最悪の条件の中で新郷工作所は、優れた放送機と同じように、すでに一個のシステムとして動いていたのだ。

 発掘班が出てきて取材陣を前にブリーフィングが始まった。かつての部下が島村の車椅子を押し取材陣の前に寄せる。
 発掘を指揮した放送博物館の担当者が話し始めた。
「予想外の広さでした。天井の高さは四メートル三〇、中は三つの区画に別れています。出入り口側から第一区画、第二区画、第三区画と呼ぶことにします。間口二メートル二〇の出入り口を入ると、左右一一メートル七〇、奥行き五メートル三〇の第一区画、ここが放送機室であったと思われます」
 広いと言っても限られた空間、放送機をいかに小さく作るにしても、性能や保守を考えれば自ずから限度がある。まして激しい爆撃にも耐えなければならない。
「第二区画は奥行き二メートル五〇で、三つの区画のうち最も狭くなっています。おそらくここが所員の居住部分で、宿泊・待機室と手洗い、簡易厨房等などがあったものと思われます。第三区画は電源室で、発電用のモーターを据え付け、燃料なども保管していたのでしょう。天井には頑丈なフックが取りつけられていました」
 島山は、あの苦渋の日々を思い出していた。雑音放送の要請は新郷だけではなかった。敵性放送防遏施設は新郷のほか、大阪、新宮、日置、名古屋、浜松、熊本、福岡、札幌、室蘭。新潟、高知などに計画された‥‥。
 島山に質問が向けられる。
「どの程度の強度を考えていましたか」
「一〇トン爆弾に耐えるというのが課題でした。コンクリートのとにかく頑丈なものを造り、その上に土を盛る。古久根組が工事を始め突貫工事で進めましたが、八割くらいできたところで終戦になったのです」
 入口は封印され、その後この秘密の地下放送所は忘れ去られていた。この日、実に半世紀ぶりに、戦時放送史の貴重な証人が姿を現したのだ。

(五)
 戦後の復興期、島山はアメリカから入ってくる放送機をモデルに、全国放送網のモデルになるものを作った。計画通りの出力が出ていない川口大電力機も、部品メーカーが回復していない状況の中、独自の力で本来の一五〇キロワットを出すことに成功した。東洋一と謳われた一号機が、三年かけても本来の出力が出せなかったことを考えると格段の進歩である。しかし、これもまたGHQの命令で一〇〇キロワットに制限されてしまった。
 島山が折にふれ思い出した事がある。
 戦後、札幌と福岡に一〇〇キロワット放送機を作ろうということになった。新郷での経験から良い放送機を作る自信はある。ところが戦時中から、東芝や日電が大電力機の製作部門を増強していた。しかし軍関係の注文がなく、あるとすればNHKが予定している一〇〇キロだけだ。そこで当時東芝の社長だった石坂泰三が抗議してきた。NHKだけが放送機をつくるのはけしからんというのである。それでは放送機はメーカーに注文しようということになり、昭和二十五年、新郷工作所は技術研究所に一本化された。このことが現場から離れた研究部門に、大きな変化を及ぼすことになった。
「それまでは研究所が研究していろんな機械を作って現場に持って行っていたのですが、使い物にならなかった。研究室が作ったものですから、故障は起こすし、直そうとしても直らない。ところが新郷では実用化機器をずっと作っていましたから。僕の方のグループで作ると、故障を起こさないいい機械ができるようになりました」
 話がここに及ぶ度に、島山の顔には愉快きわまりない表情が浮かんだ。研究と実用化技術は一体になるべきである。工作所は廃止になったが、その魂は技術研究所で生かされることになったのだ。

 その直前、島山は技術研究所からテレビ放送機の製作依頼を受けていた。テレビの経験などなかったので技研にあるという見本を見に行った。三キロワットの放送機と言うが、五〇〇ワットも出ない代物だった。若い江野沢に高周波、本間にモジュレータの研究をさせた。
 この間、思わぬ事態が起きていた。NTVがNHKに先駆けてテレビの免許を取り、RCAに放送機を注文したのである。このままではNTVに先を越されてしまう。直ちに、実験に使っていた映像三キロワット、音声一、三キロワットの放送機を内幸町の放送会館屋上に運び据え付けた。
 真空管の配置はRCAの放送機と同じである。五キロは出るはずだと五キロで電波を出した。「テレビの経験がないので、あとで考えればずいぶん無茶をしたと思いますが、そのときはカットアンドトライで江野沢君がうまく調整してくれました。終段の変調も本間君(のちの技研所長)がカソードフォロワを使い深い変調がかかるように考えてくれました。大急ぎで作ったこともあり、決していい電波だったとは言えませんが、おかげで何とかテレビ放送一番乗りを果たすことができたのです」
 和久井のTKO3の例も痛快だ。ほとんどのメーカーがRCAの真似をする中で、和久井は独自のカメラを作った。非常に良い製品で、名古屋の局長など「他のは要らないからこれをくれ」と言って自局に持ち帰ったほどだ。
 これが実用化技術というものだ。FMの一キロワット放送機も新郷で鍛えられた連中が作った。配線する者が調整する。そうすればどこへ行ってもその機械は働くようになる。工作所の考え方が研究部門にいい刺激を与えたのだ。

 これを機に島山は、テレビ放送機、FM放送機、テレビカメラの開発を、さらに積極的に進めることになる。
 昭和二十八年、技術研究所でテレビ放送の開始画面を見つめた島山は四十七歳、油の乗りきったこの年、昭和二十一年の「放送機設計並調整」、昭和二十四年の「放送機」に続いて「音声増幅器設計並調整」を出版する。
 その後もテレビジョン研究部試作課課長として多くの試作機に関わった。
 昭和三十三年、逓信事業の創始者前島密の功績を記念して設けられた前島賞を受ける。「克く放送機の自作作製を推進して事業の再建に功績を挙げ、ラジオ・テレビの両面にわたり、放送技術の進歩発展に貢献した」のが受賞理由である。
 昭和三十六年、技術研究所無線研究部長(特別職待遇)を最後にNHKを退職。NECに入社するとイランのザヘダンで一〇〇キロワット放送機の完成に尽力。現地資材のないなか信頼性に優れた放送機を完成させた。この放送機は半世紀を経た今も順調に稼働している。信頼性が高く評価され、パーレビ皇帝からラズ三等勲章を授与された。
 昭和四十一年、日本政府より黄綬褒章を受ける。
 その後も電子機器を妨害するノイズ防止の研究を続け、国際無線障害特別委員会(CISPR=シスプル)の答申にただ一人異を唱えるなど、長年培った測定理論に基づく主張を展開し続けた。

(六)
 平成十六年四月のある日曜日、港区青山の「青山荘」で島山鶴雄の白寿を祝う会が開かれた。二部屋の仕切りを取り払い、島山学校の面々を中心に歴代の技師長らNHKの幹部が並ぶ。曾孫も含め四〇人の親戚。一枝夫人とともに車椅子で迎えた島山は、お礼の挨拶でこう述べた。
「私の白寿の会ならびに家内の卒寿の会のお祝いをしていただきましてありがとうございます。
 雑音を研究しておりまして、私の技術は世界一と自分では考えておりますが、これを認めてくれる人は誰もおりません(笑)。私の主張は、電源雑音サイクルの電力を測るのに電圧だけではだめだ、電圧と電流と位相角を測らないと電力は分からない。交流理論としては当然だと思いますが、シスプル(CISPR)では、雑音を測るのに電圧だけを測ってその雑音の強度を計算しております。これは交流理論に反していて間違いだと思います。八十年前に出版された『電信・電話』という本を見ていただきますと、その計算方法が詳しく載っております」
 自らの白寿を祝ってくれている後輩たちに活を入れるかのような力が感じられる。八十年前のことがまだ分からないのか! 放送機の神様の熱い想いがそこにある。

 この日テーブルのあちこちで「島山学校」「新郷方式」の思い出が語られた。
「一つ一つに執念を燃やし緊張して仕事を続けてこられたのが長寿の秘訣だと思う。山のハイキングをご一緒した人も多いが、若い者には『平地の道を歩くだけではだめだ、山に登らなければ』といつもおっしゃっていた」
「いつも現場を回り『うまくいきますか?』と声をかけてくれたときは嬉しかったが、様子を察して『どうですか、うまくいきませんか』とくることがある。それでまた激励され、続けて行く元気が出る」
「七十歳を越えられた頃だったか、ある日突然やってきて『なぜ雑音の研究をやらないのか、けしからん』とおしかりを受けた。ハイビジョンはじめ新しいもので手一杯で、申し訳ないが今の状態では余地がありませんというしかなかった」
 懐かしさや感謝、反省が交錯し、終わっても誰もが立ち去りがたい思いの会だった。

 家族にとって島山はどのような存在だったのか。
 長女の陽子さんによると、家の中の父の印象はあまり無い。ただ黙々と勉強していた。子どもたちにとって父はいつも正しかった。よくメモをとる人だった。常に頭の中に論理回路ができていると思えるほどで、湯を沸かすときにも「炎の上から三分の一の所に鍋をあてなさい」などという。家庭で無駄を戒めるときも論理的だった。
 人の喜ぶことをせよ、といつも言っていた。電車に乗るとよく席を譲った。
「ここは七人掛けです。六人で座ってますから詰めてください」
 そう言って別の人に「ハイここへどうぞ!」と座らせる。
 陽子さんには新郷時代の父の思い出がある。新郷行きのバスを待っている間に列ができる。例によって「ちゃんと並んでください」と仕切る。
「列があんなに長くなりました、車内のかた、もう少し詰めてください」
 横から入る人にも注意する。……「車掌さん」と呼ばれた。

 九十歳をこえる頃、雪山で転倒し肩を痛めた。それ以来、毎朝老犬チャオを連れて歩くようになった。東京都のゴミ袋を持ち、道路に捨てられた缶を拾い集める。ジュースの自販機の百メートルほど先には特に多い。ゴミ籠があるのに道路にゴミを捨てるのでは設置した意味がないと、ゴミ籠の撤去を区に進言した。
「ゴミ籠がなくなれば、皆がゴミを持って帰るようになるでしょう」
 ‥‥どうやら偉い人らしいと、近所の人はささやいていた。
 散歩から帰ったときの家族への報告も島山らしい。
「きょうは寒かった。七人に挨拶したら、二人が返事をしてくれた」などという。
 あるとき公園に住みついた人に「おはよう!」と声をかけた。
「おやじ何してんだ、毎日‥‥」
 そこでもういちど「おはようございます」と返すと、
「わかったよ、俺たちにもやれってことなんだな」
 翌日、公園に行くと、空き缶が全部集めて置いてある。
「きょう、公園の人たちが協力して缶をいっぱい拾ってくれたよ」
 ‥‥父はそうやって誰とでも付き合いました、と陽子さんは笑う。

 毎年の年賀状で、島山は日本の現状を憂えた。世相、風潮、若者、‥‥どれをとっても、将来をみつめる想像力が感じられない。自分が目ざしてきた質の良い電波を使って、日本の将来に少しでもつながる番組を放送してほしい。
 想いを込めた几帳面な字で、島山は年賀葉書に綴る。
「賀正 また正月がやってきました。お元気ですか。私達は老化しましたが、歩けるのでまあまあ。
 動植物を問わず、生きものは、最初はその数は少く、ゆっくり増えますが、ある程度増えると急に数を増します。頂点に近づくに従って自ら毒をつくり、急速に滅亡しています。人類は昔は戦争、飢饉、伝染病にその数を押えられていましたが、最近はその壁がとれて、一気に数を増しています。車、飛行機、冷暖房、各種エレクトロニックス応用機器で快適な生活を楽しんでいますが、これらは存在が限られているエネルギーを浪費し、二酸化炭素を放出し、環境を悪くしています。それは人類を亡す毒の一つといえます。二酸化炭素の放出を制限するのに消極的なのは自滅の道を歩くことを意味しています。加えてバブルの後遺症で官・政・産・財はおかしくなりました。大正の初めは、二十世紀に希望をもっていましたが、二十一世紀はどうでせうか」

(七)
 平成十七年二月二十五日、昼食のあと島山鶴雄は不調を訴えた。看護師を呼んで見てもらうと、血圧がかなり下がっている。救急車で入院した。一通り手当が済み落ち着いたところで、付き添った陽子さんが声をかけた。
「これで帰りますからきょうだけここに泊まってください。あすは一番で来ますから」
 いくらも経たないうちに容態急変の知らせがあり再び病室に戻った。最後までしっかりしていて「ハイ私はこれで参ります」と声をかけて逝ったという。
 父は「他の人のために生きる」ことを教えてくれたと陽子さんは思っている。
 それは感謝の気持ちに通じるものだ。
 朝起きると雨が降っている。「木が喜んでいる、有り難いなぁ」と、心底思うことができる。

 日本で初めて放送が始まった大正十四年、のちに放送作家として活躍する長田幹彦が芝浦の仮放送所を見学したときの印象記がある。
「機械室を出ると、まだ西空には紺青色の薄明がほのかに残っていて、唯一つ瞬いている星をめがけて、高いアンテナの柱が矗平と突っ立っている。張り廻わしてあるワイアは宵闇に紛れて見えなかったが、併しそこいらから数限りもないイーサーの波がさながら北極光のように眩るしく迸り流れているのだと思うと眼には映らなくても耐らなく神秘な感じがする。若しも声の波の変化につれて、それが五彩七彩の霊光を放つとしたら、その豊麗さはどんなであろう」
 島山の目にも「声の変化につれて輝く五彩七彩の光」が見えていたのではなかろうか。しかも、それが彼の手がけたすべての放送機が放つものだとしたら、どれほど豊穣な光に彼は包まれていたことだろう。

                               (2007.07.10)
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