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  明治四十二年、ヘッセ初登場
〜石川啄木も読んだかな〜

早川 邦夫  


◆はじめに
「今日から二十四歳」
と、石川啄木(一八八六〜一九一二)は一九〇九年(明治四十二年)一月一日の日記に書いている。
当時、啄木は妻子を函館に残し、東京の本郷区森川町の蓋平館別荘で下宿生活を送っていた。同郷の友人金田一京助も同じ下宿で行動を共にしている。
日記によると、前夜から部屋の片づけをして、寝たのは朝の四時。起きたのは九時ごろである。朝食は一杯の酒に雑煮など。午後に、千駄ヶ谷の与謝野鉄幹宅を訪ねている。啄木の歌人としての才能を最初に認めたのが、鉄幹である。
「屠蘇、夕飯。与謝野氏はスバルの前途を悲観していた。主要なる話はスバルに関した事であった」
その後、平出修(ひらいで しゅう)を訪ねている。詩歌雑誌『明星』同人であった平出は、文芸誌『スバル』の同人、財政支援者として参画している。平出は弁護士として、後に大逆事件を担当している。
「話はここでもスバルの事。予は編集を各月担任者に全責任を負わせる事を説いた」
元日、啄木は精力的に活動している。話に出た『スバル』とは『明星』の後をついだ文芸誌『スバル』のことである。この元日に『スバル』第一号が発刊されている。月刊誌『スバル』第一号の編集兼発行人は石川一(啄木)。発行所は神田区北神保町の昴発行所。ここは平出の自宅であり、法律事務所でもあった。
『スバル』の編集担当者は啄木の主張が通り、毎号替わった。第一号は平野万里(ひらの ばんり)、第二号は啄木、第三号は木下杢太郎(きのした もくたろう)、第四号は吉井勇(よしい いさむ)である。
実は、啄木が編集に協力したこの『スバル』第一号に、ヘルマン・ヘッセ(一八七七〜一九六二)の『クヌルプ 〜クヌルプの生涯の三つの物語〜』の第二章『クヌルプの思い出』が新進気鋭のドイツ文学者茅野蕭々(ちの しょうしょう 一八八三〜一九四六)の翻訳で『友』という題で紹介されているのである。
現在、確認されている中では、日本における初めてのヘッセの翻訳である。今から、九十七年も前の出来事である。
啄木の日記や書簡には、ヘッセに関する記述は見当たらない。啄木がヘッセに関心を持ち、愛読していた気配はないが、少なくとも、編集人として、同人仲間の茅野が翻訳した『友』を読んでいるはずである。ドイツの若手の作家としてのヘッセの存在は、頭の中にちらっとは入っているのではないか。
一九一五年、第一次世界大戦の最中、『クヌルプ』はベルリンのフィッシャー書店より単行本として出版されている。
雑誌への発表はそれより早く、第二章の『クヌルプの思い出』が、まず、文芸誌『ノイエ ルントシャウ』(新展望)にのった。一九〇八年のことである。ドイツ文学を代表する出版社の有力雑誌が『ノイエ ルントシャウ』(新展望)である。
その後、一九一三年から一九一四年にかけて、第一章『早春』・第三章『最後』がそれぞれ発表されている。
一八八六年創立のフィッシャー社は、現在もドイツを代表する文芸出版社である。日本で言えば、新潮社とか文芸春秋社といったところか。ヘッセは一九〇四年に、フィッシャー社から『ペーター・カーメンチント』を出版し、新進作家としての道を歩んでいる。その後、『車輪の下』を発行し、トーマス・マンなどとともにフィッシャー社系の有力作家の一員となっていた。
一九〇八年(明治四十一年)九月から、京都の第三高等学校でドイツ語を教えていた二十六歳の茅野は、ドイツで発行された『ノイエ ルントシャウ』(新展望)を入手し、そうそうに翻訳したことになる。
一八八三年(明治十六年)、長野県上諏訪町に生まれた茅野は十九歳の時、与謝野鉄幹主宰の新詩社に入社し、作歌活動を開始。東京大学独文科に入学してからも、詩、短歌、評論、翻訳などを『明星』に発表している。大学在学中に、日本女子大国文科を卒業したばかりの歌人増田雅子と結婚している。なお、蕭々という号は鉄幹の命名による。
ドイツよりはるか東方の小島・日本で、新進作家として登場したばかりのヘッセに注目した茅野の眼力には恐れ入るばかりである。当時、まだまだ、ヘッセの作家としての評価は十分に固まってはいない。
一九〇九年(明治四十二年)一月。この時から、日本におけるヘッセ受容が始まった。
さて、これから日本におけるヘッセの初翻訳が掲載された『スバル』の周辺を散策してみたい。

◆文芸誌『スバル』について
昴(スバル)という名前は「星はすばる。ひこぼし。夕づつ」と清少納言が『枕草子』で称賛しているように、古来から日本人に愛でられた星座である。
冬の宵、天空に美しく輝く星座、それがスバルである。現在では、自動車会社の名前になっているし、堀内孝雄が歌っている曲名もそれである。日本人にはなじみが深い名前と言える。
文芸誌『すばる』第一号の巻頭言は次のように始まる。
「われわれは決して一定の主義若しくは簡単な動機の下に相集まった訳ではない。が何かその趣味、その思想、またはその境遇に於て相通ずる所があったのに違いない。」
同人は『明星』脱退組の北原白秋、吉井勇らと新詩社系の啄木、平野万里らとの混成である。
最後に、雑誌の題名にふれている。
「夜半仰いで空を見ると、天心より少し南に、しとやかに輝いている星の一群がある、昴宿といはれるものである。取って我々の草子に命じたのは何も特に理由のあった訳ではなかったが、名づけてみると先例や種種の比喩などがついて来て困る。比喩などはどうでもよい。単に一種の符牒として置きたい。」
第一号の編集者平野の文章である。『スバル』のタイトルは、啄木らが候補として選んだ数点の中から、最終的には顧問各の森鴎外の意見を取り入れて決定している。
『スバル』は、文学史的に言えば、鉄幹が主宰した『明星』の後を受け継いだ文芸誌である。
『明星』は一九〇〇年(明治三十三年)四月から、一九〇八年(明治四十一年)十一月まで続いた。明治文壇にさんさんと輝く詩歌総合雑誌である。与謝野晶子や啄木、白秋などの詩人、歌人が飛び立った。しかし、財政難と時代への流れに乗り遅れ、一〇〇号で廃刊となった。
啄木の日記を読んでいると、一九〇八年(明治四十一年)五月ごろには、『明星』終刊の話題が登場している。
廃刊を翌月に控えた『明星』十月号には、スバルの広告が一ページ掲載されている。
三段組の上段には、純文芸雑誌『昴(スバル)』の発行を翌年の一月一日としている。
中段には、スバルの編集方針を次のように模索している。
「我らの新に建てむとする家はこれなり。壁は青く塗るべきか、はた赤く塗るべきか。」
この時点では、進むべき道はまだ検討中のようで、同人仲間でも意見が割れていたのであろう。
下段には、外部執筆者として、森林太郎(鴎外)、与謝野寛(鉄幹)、薄田泣菫(すすきだ きゅうきん)などの名前が明記されている。スバル同人としての内部執筆者として、与謝野晶子を筆頭に、茅野蕭々、石川啄木、平野万里などの名前がある。この広告の文案は啄木が書いたものである。   
『明星』十一月号(終刊号)には二ページに渡って、月刊純文芸雑誌としての『スバル』の予告が掲載されている。
一ページ目には、十月号の広告の内容をさらに充実させている。外部執筆者に上田敏、小山内薫、阿倍次郎など、内部執筆者として、高村光太郎、茅野雅子などを追加している。発売所として、金尾文淵堂としているが、この件は交渉がこじれてご破算になっている。
二ページ目の目次は詳しい。左右に「脚本一篇 森林太郎作 散文一篇 上田敏作」と顧問各の二人を大きく書いている。その間に、詩、小説、短歌の執筆者の記述がある。
その中で注目すべき題名がある。茅野蕭々の『素朴と天才』である。『友』ではないのだ。この題名の中身は何であったのだろうか。実際には、『クヌルプ』の第二章『クヌルプの思い出』を『友』として翻訳している。『友』は茅野が創案してつけた名前である。当初、クヌルプの第二章の題名を『素朴と天才』にしていたのだろうか。それとも、何か別の小説を創刊号に予定していたのだろうか。疑問が残るところである。ただ、その後の『スバル』には、『素朴と天才』というタイトルを見出すことはできない。
『スバル』第一号は、付録として鴎外の戯曲『プルムウラ』三十四ページから始まり、本文一六八ページと合わせると二〇〇ページを越している。
木下杢太郎の小説『荒布橋』、啄木の小説『赤痢』、小山内薫の散文「起床前」、蒲原有明の長詩「落日」、吉井勇の短歌「うすなさけ」、雑録として海外文芸の紹介など多彩な内容となっている。
さて、茅野訳の『友』は二十ページに渡って、雑誌のほぼ中ごろに掲載され、「小説 ヘルマン・ヘッセ」と明記している。他にヘッセの解説はない。
冒頭は次のように始まる。
「青年期が知らぬ間に過去って了ったと感づくことは、早晩、誰にでも一度はある。
・・・・・・・・・
楽しい青年期の最中であった。クヌルプは未だ生きて居た。其頃吾々(彼と自分)は暑い真夏に、豊かな或る地方を歩き廻ったことがある。心配と云うものは殆んど何も無かった。」
漢字が多く、今の視点から見ると、非常に読みづらい。ちなみに、手元にある高橋健二訳(新潮文庫)の冒頭をのせる。
「まだ陽気な青春時代のさなかであった。クヌルプはまだ生きていた。私たちは、彼と私は、そのころ焼けつくような夏の時期に豊かな地方をさまよい、苦労をほとんど知らなかった。」
茅野訳の最初の段落は、単行本にはない。単行本収録に当たって、多少の手直しがなされたものと思われるが、話の筋はほとんど替わりは無い。
『クヌルプ』第二章は、今は亡き遍歴職人クヌルプを主人公が回想する内容で、主人公とクヌルプとの対話が中心になっている。アウトサイダー、はぐれものでもあるクヌルプの人生観が随所に表明されている。
『クヌルプ』はヘッセの前期の代表作である。まだ、ヘッセが世間と平和に織り成していた時期の作品である。遍歴、流浪、アウトサイダー、旅、愛、友、夢、憧れ、死など初期のヘッセのモチーフが盛り込まれている。
余談になるが、『スバル』第一号の表紙絵は画家和田栄作による。オリーブ?の木の下で、ギリシャかローマ時代を思わせる風俗の七人の女性が手に武器を持ったひげ面の男とイヌに追われている光景である。絵の一角には、ラテン文字みたいなのが書かれているが、判読できない。なかなか、しゃれた絵である。
和田栄作は、一八七四年(明治七年)鹿児島県垂水市の生まれである。富士とバラの洋画家として有名である。焼失する前の法隆寺金堂壁画の模写の仕事もしている。『スバル』には創刊号から二十四号まで、二年間にわたって表紙絵を書いている。
なお、裏表紙もおもしろい。人物のスケッチ画である。四人の顔が描かれている。当初、雑誌の所有者の落書きと思っていたが、よくよく見ると、これは勘違い。四人は同一人物で、画家四人による、鴎外の戯れ画である。ひげをはやした、森林太郎陸軍軍医総監の姿である。
四人の画家とは、浅井忠、和田栄作、中村不折、鹿子木孟郎である。
『スバル』は一九一三年(大正二年)十二月まで続き、六十冊が発行されている。小説では鴎外の『青年』、『雁』、詩歌では北原白秋、高村光太郎などがすぐれた作品を発表した。新ロマン主義の拠点として、文壇に与えた影響は大きい。『明星』とともに、日本文学史にさんさんと輝いている。
その間、茅野は同人として小説、詩、翻訳を発表し、『スバル』を支えてきた。第二年第五号(明治四十三年五月発行)には、メーテルリンクの『青い鳥』を金星草のペンネームで翻訳している。
一九一七年(大正六年)に、茅野は慶応大学に転じている。主な著作として『ギョエテ研究』、『ファウスト物語』、『リルケ詩抄』などがある。ゲーテ研究に精力的に取り組み、一九四四年(昭和十九年)には日本ゲーテ協会からゲーテ賞を受賞している。茅野が『クヌルプ』以外にヘッセの作品を翻訳したのかどうかは確認できない。
『友』はその後、一九二六年(大正十五年)に『世界短編小説体系』(近代社)に収録されている。
ちなみに、『友』以降の二番目のヘッセの翻訳は、一九二五年(大正十四年)、新潮社から発行された『シッタルタ』(三井光弥訳 海外文学新選)である。『友』発表後から十六年後のことである。
一九三三年(昭和八年)には、『クヌルプ』の全訳が春陽堂から世界名作文庫のシリーズとして出版されている。訳者は植村敏夫である。ヘッセ評伝もあるなかなかの力作である。
その後、一九三八年(昭和十三年)に岩波文庫に『漂泊の魂〜クヌルプ〜』(相良守峯訳)として加わった。前年に出版された『青春彷徨〜ペーター・カーメンチント〜』(関泰祐訳)、同年の『車輪の下』(高橋健二訳)、翌年の『青春は美し』(関泰祐訳)、『デミアン』(高橋健二訳)とともに、ヘッセの文名は広がり、最初のヘッセブームが起こるのである。
まもなく、明治四十二年のヘッセ初翻訳から一〇〇年を迎える。今も新しいヘッセ全集の刊行(臨川書店刊)が継続中で、ヘッセ受容はわが国では連綿と続いている。
今後も『クヌルプ』は、ヘッセの愛すべき代表作として、読まれ続けるであろう。

(参考文献)
『スバル復刻版』一九六五年         臨川書店
付録として、吉田精一著『「スバル」解説』、
      岩城之徳編『スバル』総目次がある。
『明星 第一次 複製版』一九六四年     臨川書店
『啄木全集』全八巻 一九六九年       筑摩書房
『明治文学全集 五十一』昭和四十三年    筑摩書房
『明治・大正・昭和翻訳文学目録』平成元年    風間書房
石川穣二訳注『新版 枕草子』昭和六十年     角川文庫
山口知三ほか著『ナチス通りの出版社』一九八九年 人文書院
栗原万修「郷土詩人としてのヘッセと啄木」
       一九七六年 『駒澤大学外国語学部紀要五号』
高橋健二訳『クヌルプ』昭和四十五年       新潮文庫
ヘッセ研究会・友の会編『ヘッセへの誘い』
                一九九九年  毎日新聞社
垂水市ホームページ
 

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