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  近所考(その五) ―京の学校好き・近所学校ものがたり―

伊藤 淳平  


 明治維新の東京遷都、朝廷が離れ、お公家さんたちがくっついて東京へ去った後の京都の様子はさながら蛇が脱皮して残したカサカサに乾いた抜け皮のように、ナンとも正体の定まらぬ、「ざま」の悪い姿であったと思われる。ひととき、街の住人の頭の中は真っ白、心に風がとおり、目はうつろ、夢遊病者の集団と化したのではなかったか。千年の間、都であり、住人は千年間、とにも角にも都人士として棲み・暮らしてきた。後をなぞって、「千年か」と感想をツブヤクのはた易いが、千年という時間はやっぱり長い。香港の租借期間が99年であったことを思えばよい。英国は99年という時間に、ほぼ「永久」の意味をこめて清国との租借条約を結んだ。そして、その99年が中国にとってドレだけ長い時間であったことか!千年とはその十倍である。

 朝廷の在る所は京都、京都は朝廷の所在地であるがゆえに京都であった。朝廷とは「空気」や「水」と同様、存在することが当たり前、その水と空気が突如、忽然と消えたことを想像すれば、遷都でうけたショックの強さが少しはハッキリする。永遠普遍の「公理(と思っていた)」がくずれ一瞬、京都のリーダーたちは放心して、さながら酸欠状態の金魚のように口パクパクさせながら、形相もの凄く、そして必死に生きる道を考えはじめた。京都の枯死・悶死を心配して協力者がアチコチから現れ、京都の救世主たらんとサポートの手がさしのべられもした。なかでも、北垣国道(第三代京都府知事)、山本覚馬(同 顧問)二人の功績は多大であった。朝敵・会津藩出身の山本覚馬は失明・脊髄を病む不自由な身体をおかして、京都近代化のために文字どおり東奔西走、命をけずって奮闘した。これら改革リーダーたちの上からの近代化努力が後日、琵琶湖疎水開通、京都(蹴上)水力発電所完成、電(動)力による繊維工業の振興、日本最初の市電開通など近代都市のインフラ整備が全国に先駆けて完成するなど大きな成果をうんだ。お陰で京都は「奈良」の道をたどらず、ナントカ近代へ繋がる都市として蘇生し、生きながらえた。

 しかし、京都の町衆が復興を人任せ、なりゆきまかせに放っていたわけではない。特筆すべきは、「教育事業」へのアクションの速さである。明治元年、京都府は小学校建設を公達、上京・下京の町衆たちがすばやく反応した。町内(番組)単位できそって資金を供出し、「校舎」を作り京都府の意志に応えた。篤志家、商家の大店も積極的に寄付に応じた。府が費用の一部を貸付金として融通したが、これも要は番組町内の「借金」である。運営費用も町衆が公平に負担した。明治二年のことである。明治政府により学校制度が作られ、文部省令が出たのは明治五年。その頃にはすでに洛中には64の小学校が出来あがっていた!これが「番組(ばんぐみ)小学校」である。全国にはいろいろと自慢を誇る学校は一杯あるが、歴史の古さだけに止まらず、住民(番組単位)の負担で学校が建ち、子供の有無にかかわらず運営費用も分担した例は他にない。
 「人を作る・人を育てる」。人材作り、教育制度の充実が今後の日本と近代京都の礎を築くためには、なによりも優先する政策と考えたこと。そして学校を「自ら作り、自ら育てる」事業を通じて、自治の精神の涵養と実践を重ね合わせたこと。どこぞの首相がモノ知り顔に「米百俵」を説いた百年以上前の、フツーの市民の話である。
 いま、ご多分にもれず、街の中心部が過疎化、いわゆるドーナツ化現象で小中学の統合が進んで、用済み?校舎の取りこわしが進行しているが、日頃、高圧的な行政府の姿勢もコト「校舎取り壊し」についてだけはナゼカ遠慮深げに見える。「この校舎は寄付して頂いたモノ」との太古の記憶がトラウマになって残っているかのようだ。

 京都近代化については「琵琶湖疎水開削」やわが国最初の「市街軌道電車施設」など都市インフラ整備がそのシンボルとしてよく語られるが、私の心には「番組小学校」設立に込められた町衆の「これからの京都はこれや!」という気迫のこもったメッセージの方が熱くひびく。都の歴史の中に諸行無常を知り、世の有為転変の学習を積んだお陰か、遷都後の京都の次世代・戦略コンセプトは「文化と教育!」といち早く読み、意識を切り替えた町衆の明快な行動は、思いのほかタフで健全、冷静であったと思う。「京の学校好き」の由来はこの辺りから始まっている。


 そんな訳でもあるまいが、わが近所にもはなはだ学校が多い。そのお陰で、周囲著名・ユニークな学者や研究者も住み、校風・個性豊かな各々の学校からは各界の多彩・な人物を排出した。残念ながら、「番組小学校」とわが母校(大将軍小学校)は全く関係がない.。なにしろ「お土居(前項に記述)」の外である。が、お土居・内側の「近所」は皆、「番組小学校」の伝統を継いでいる。後述の「翔鸞(しょうらん)」「仁和(にんな)」小学校はその類である。
 洛中の中心に京都近代化の息吹が芽生えいた頃、わが学区は「字・村」の地名に止まり、周辺の大半が泥沼同様のため池などが点々とする荒地と田畑の風景であったことは既にお話ししたとおりである。しかし、明治も中ごろを過ぎると京都にも落ち着きと活気が徐々に戻り、一時激減していた人口が増加に転じて、住宅圏が右京へも広がり、初等教育施設がセットで新設された。とも角、過疎地・大将軍村には十分な空きスペースがあった。高等専門教育機関や公立中学、私立学校などの進出・新設が相次ぎ、次々と空き地は埋まっていった。かく経緯で、へんぴな村が俄かに「文京地区」へ化けた、という次第である。
 私が高校生の頃、母校・山城高等学校(旧・京三中)・京都工芸繊維大学(移転)・花園高等学校・京都商業高等学校(現、京都学園)の四つの学校が塀一枚でくっつき隣り合っていたが、かかる風景は全国的にもあまり例がないのでは。おまけに、「山城」の東向かいは府立医大・教養課程の学舎で、その北、道一本を挟んで大将軍小学校がある。ナントモご念が入っている。今、近所周辺には小学校六校、中学校五校:公立2、私立3、高等学校五校:公立1、私立4、大学三校:私立2、医科大教養課程1、(それに過去、国立一校が加わっていた)など、しめて19の学校(過去・20)がひしめいている。

 戦後、学校制度が大きく変わった。その学制改革の正体について少し感想を述べれば、教育の機会均等や平準化は進んだが、引き換えに、教育が規格化、標準化し、個々の校風や味のようなモノ、つまり特徴や個性をなくしてしまった。校舎はコンビニ店舗ように画一となり、授業内容もマクドナルド流の味付けマニュアルを真似て全国「金太郎飴」基準を守っているようで、全くつまらないと思うが、これはまた別の話である。ともかく、わが「近所の学校」にもそれぞれの歴史や伝統の中に生まれた個性や文化があり、色んなエピソードがある。以下の「学校ものがたり」はそんな内容の話が中心である。

 学都・京都を代表する「京都帝国大学」が洛東・吉田山麓の第三高等学校に隣接して開設されたのが明治三十年(1897)のこと、その翌々年(1899)、地理的には東西対極の位置の「京都府葛野郡衣笠村字大将軍」の一角に、重要な国立・専門教育機関が設立された。「京都蚕業講習所」である。当初、農商務省所管で生まれたこの学校は大正三年(1914)、文部省所管となり「京都高等蚕業学校」と名を改めるが、わが国・基幹輸出産業「養蚕・生糸」振興・研究のための最も高度な専門教育機関であった。「生糸」はピーク時、わが国輸出額の60%を占める当時最大の輸出商品である。生糸産業振興はいわば国家財政の基本に関わる課題であり、本学はかかる大きな使命を担って誕生したと云うべきである。東京、上田(長野)を加えて全国に三校設置され、「日本・三大高等蚕糸」と呼ばれた。教育・研究領域は「養蚕・蚕種・製糸」と徐々に広大・充実したが、大正九年・新設した「蚕種科」は本邦唯一の学科である。「蚕種」研究では世界一線級の水準に達していたと云われている。就学生の出身地は北海道から鹿児島、朝鮮に亘り、全国区であった。最高の専門教育を受けた卒業生は幹部指導員として全国の「養蚕・生糸関連」産業に入り、その振興・指導にあたって、生糸増産や生産性向上に多大な貢献をした。まさしく日本の基幹産業の土台を支える仕事を担当したのである。
 『「太平洋戦争」まで、日本は「絹」の稼ぎで戦争をした』とは生糸産業に携わった者なら一度は口にしたセリフである。戦争の是非はとも角としても「養蚕・生糸」産業が戦前の最重要輸出産業であり国家経営の基幹産業であったことは疑いない。
 子供の頃、われわれはこの専門学校を「コーサン(高蚕)」と敬意を込めて呼んでいだ。国の経済を支える産業にこの学校が深く貢献し、その道の最高教育機関・「高蚕(略称:コーサン)」が地元に存在する事に近在の住民は誇りを持っていた。かかる大人たちの「学校」への敬愛の感情が子供の心にも伝わっていた。しかし実のところ、われわれと「コーサン」の関係は、そんな高度な次元の話とは関係が無い、もっと日常的な繋がりにあった。同時代の人ならば同じ経験をお持ちに違いない。「蚕を飼い、育てる事」が当時の子供の楽しみ・遊びのバリェーションのひとつであった。今風に言えば、ペットを飼う感覚に近い。
 そんなわけで、シーズンになるとまず楽しみの「もと」を調達する為にコーサンの構内に不法侵入しなければならない。理由は不明だが、構内アチコチには沢山の蚕が放置?されていた。それを拾い集め、ウチへ持ち帰り、用意した適当な紙箱に“仕切り”を作って蚕を一匹ずつ入れる“飼育が始まる。
 蚕は何度か脱皮を繰り返して成長、やがて繭を作って内に閉じこもる。繭を耳もとで振るとカタカタと「サナギ」の音がする。暫く時間が経って、蛾に変身し、繭に穴が空いて、外部へ飛び出す。蚕の生涯をハショッて言えばそれだけだが、その毎日の変化の様子を眺めることが面白く楽しかった。問題は日々の餌の「桑の葉」の調達で頭の痛い大仕事であったことだ。コーサンの塀沿いに並んで立つ桑の木がターゲットであった。恐る恐る塀をよじ登って、木に飛び移り、葉っぱを失敬するのだが。コーサンの学生に見つけられるのは怖かった。発見されると例外なく、コッピドくタコをつられた。面白半分?であったのだろうが中には本気で怒る融通の効かぬ学生もいた。学校としては子供が塀から墜落して怪我でもされたら大変、とそれを懸念していたのだろう。しかし桑の葉っぱがなければ蚕は育たない。ひたすら懇願して、わずかの葉を宝物のようにおし頂いてもち帰った。そして、毎日その繰り返し。みんな同じことをやっていた。
 たまに、コーサンの学生の下宿先の子供がいて、良質の蚕も桑も思いのままという恵まれた奴がいた。私にはそんな「ツテ」が無かった。
 年に一度?学校が開放され、一般人・出入り自由の一日があった。文化祭らしき行事であったのだろうか。その日だけは正門から堂々と構内へ入れたのだが、日頃塀越しに侵入している後ろめたさが抜けず、何となくオズオズと伏し目勝ちに入ったことを想い出している。
 私の会社生活の後半20年間は「絹」と縁が深かった。仕事で関係が深い「片倉」「カネボウ」などの幹部社員にはコーサンOBが多かった。お互い、素性が明らかになると青春の地・大将軍周辺の話にひとしきり華が咲き、大いに会話がはずんだ。OBでもない私も、なぜか旧友に再会したような錯覚にとらわれたものである。
 コーサンは戦後の学制改革で京都工芸繊維大学(繊維学部)に統合され、学舎も大将軍から離れて洛北・松ヶ崎へ移転した。永年、日本経済を支えた「養蚕・生糸」産業は戦後、国際需要が縮小し、輸出産品としての価値が急落した。国内需要もアメリカが開発したナイロンなど合成繊維に圧倒され、繊維王座の地位を降りた。かくして、「高等蚕糸学校」の誇り高い歴史も五十年で閉じた。わが近所から「自慢」のひとつが消えたが、蚕が桑の葉を食む「サクサク」という独特でリズミカルな音は、まだ耳にあざやかに残っている。

 戦前、日本の主要都市・地域には必ず「ナンバー・スクール」と呼ばれる地域を代表する中学校があった。私の母校(京都府立山城高等学校)の前身もナンバースクール(旧・京都府立第三中学校)である。
 京都の中学校・第一号は明治三年(1870)創立の「京都府尋常中学校」である。番組小学校64校が立ち上がった翌年に京都府は早くも、その上級学校を作った。これが後、明治三十二年(1900)「京都府立第一中学」と改称されて、俗に言う「一中」になった。志願者の増加で「分校」増設が必要となり、明治四十一年(1909)、わが学区内に「京都府立第五中学校」が開校した。十年後の大正七年、「五中」は「京都府立京都第三中学校」と改称し、やっと「一中」分校の身分から独立した。設立当初の「五中」は、「一中」在籍の三年生未満の学生の居住地区を、「東洞院通り(ひがしのとういん・京都市街中心地の南北を走る道)」で東西に分け、西側に住む生徒を「五中」へ強制的に振り分け、移籍”した。何故、「東洞院通り」が分岐点になったのかは不明である。
 「五中」開校時、遠隔地・学生用の「寮」が間に合わず、近くの妙心寺(臨済宗妙心寺派本山)の塔頭(たっちゅう)数ヶ所が臨時の寮となった。足利家菩提寺の「等持院」や西隣の「万年山・真如寺」のお世話にもなったと記録にある。真如寺は高師直(こうのもろなお)建立の名刹であるが、たまたま今のご住職は、私が永年のご交誼を頂戴している金閣・鹿苑寺の前執事長・江上泰山師(現・本山・相国寺宗務総長)である。
 さて、「五中」開設後のしばらくの間は、入学試験も一中と共通で行われるなど、実質、「一中分校」の扱いが抜けず、影が薄かったとOBが述懐している。校名を「三中」と改称し、自前の入試を実施し始め、「一中」とは一味異なるスパイスの効いた「自覚と個性」が光り始めた。京都全域から俊才が揃ったが、特に「個性派」学生の人気を集めたようだ。自由で開放的な校風は定評があった。むろん、生徒の頭脳は「並以上」ハイレベルで、卒業生の多くは三高・帝大へ進み、エリート街道を歩んだ。ただし、残念ながら今のところ一中のように、「ノーベル賞」とは縁がない。世俗世界(法・官・財・教育・医等など)の出世名士録に載る三中OBは枚挙に暇なく、ご紹介の作業は省く。大将軍という土地柄と三中校風の一面にふさわしい卒業生を一人だけご紹介したい。田村高廣氏。父・坂東妻三郎の後を継ぎ、映画界に入られた。今もスクリーン上の現役、活躍されている。三中弟三十七回(昭和二十年)のご卒業である。昭和二十三年、学制改革で旧制の伝統を閉じたが、新制・京都府立山城高等学校は、三中の実績と共に「リベラルの伝統」を引き継いだ。私の場合も「実績」とは無関係だが、リベラルの気風だけはしっかりと引き継いだつもりである。

 すぐ近くに京都を代表する個性派の商業学校が二つあった。「京都市立第二商業学校(二商)」と「私立・京都商業学校(京商)」である。
 「二商」は明治四十三年(1912),西陣の真ん中「上京・大宮五辻(いつつじ)」に創立された。入学希望者が増え施設拡張が必要となり、大正九年(1921)、わが近所・西ノ京村が移転候補地となった。「京二商史」に当時の周辺の様子が述べられている。『候補地は北と西を「お土居」にかこまれた深い竹やぶの傾斜地、東側には泥沼がある等、とんでもない荒地』で視察に来た関係者は、この景観を目前にして呆然と途方にくれた、とある。北を大将軍村に接する土地だが、よほどひどい状態であったようだ。西側の秀吉遺跡「お土居」を崩し、その土砂で数メートルも地面をかさ上げして、やっとグラウンドと校舎建設用地らしく整地が出来たとある。いま思うと学校用地の整地に貴重な「お土居史跡」を崩すことなど持っての他、暴挙!と思うのだが、当時の社会通念はそんな所だったのだろう。むしろ、秀吉の遺構が四百年を経てなお京都市民の「お役にたった」ことの方にお土居の意義を感じていたのかも知れない。戦後、二商の校舎は新制中学(京都市立北野中学校)に引き継がれ、数年前に全面新築された。かつての面影は残ってないが、現在の「北中」の生徒も昔の「二商」の学生と同じく、日々、「秀吉の土」を踏み固めていることには間違いない。
 京都は商業学校先進都市である。明治j十九年(1887)には早くも「京都府立商業学校」が旧・長州藩邸跡(現・京都ホテル)辺りに設立されている。もともと京都は生産都市であって、織物・染物などの繊維産業、焼もの、種々の工芸品など明治初期は全国GDPの20%を超えていた。そんな都市の性格から、「工業学校」開設の要望が高かったのだが、実験施設などへの多額の投資負担が重く、財政的に京都府では負担困難な為、商業学校開設へ方針転換した経緯があった。当初の授業内容が「実業・実務」教育を超えて高度なレベルで、卒業生の多くが設立目的に反して?家業の継承を嫌い、会社員志向が強くなるなどの弊害が出たらしく、わざわざ実務教育中心の「別科」が新設された。別科は後年、「京都市立実習商業学校」として独立し、有為な実務派商業人が多く育った。ひと昔まえの京都の室町繊維問屋街。たたき上げの支配人クラスは圧倒的に「実習卒」が幅をきかしていた。「全国ただひとつの公立・丁稚学校や」。
 父もOBの一人。楽しそうに笑いながら話していた。
 「二商」開設で、市立商業学校(府から市へ移管された)は「京都市立第一商業学校」と改称し、市立商業学校が二校鼎立する。両校はなにかと比較されたが、在校生の出身地域に特徴が見えた。「中京(なかぎょう)の一商」、「西陣の二商」ともいわれ自然、ライバル意識が盛り上った。二商は校是が「質実剛健」。校風はやや野暮ったく硬派であったらしい。私のお世話になった会社の先輩諸氏にも両校出身者は多かった。何故か、二商OBの方にユニーク、個性派人物が多かったように思う。学校のスマートさと勉強の方は一商出身者に少し歩があった?。
 この学校には過ぎたる体育施設があった。当時のレベルでは破格の「スタンド付・競泳用公認プール(前稿・その二)」。大正十五年夏・完成。プール開きが盛大に行われた。
 「日本選手権」、(大正十五年八月十四日)と「日米対抗」(九月十五日)の二大イベント。
 学制改革(1948)で閉校になるまでの三十六年間、「二商」は7000名の卒業生を世に出した。一流財界人としてなお現役の元気なOBも多い。

 自宅から一条通りを西へユックリと歩いて10分足らず、西を妙心寺、東を昔の「コーサン」(現在は府営マンション群)に挟まれた一角に京都商業学校(現・京都学園高等学校)がある。草創は勤労青年対象に、上級学校への編入受験の「予備校」として洛東・吉田に創立(1925)したが夜学専門の商業学校へ転換を期して、昭和三年(1928)、この地に移転した。、昼間部が併設されて昼夜二部制の商業学校になった。今日のように教育の機会均等が徹底してない時代、かかる勤労学生に道を開く学校の存在意義は大きかったと思う。伝統的?に“苦学生”が混じり、卒業生の中には「力業努力型・骨太人物」が多く見える。ただ、この学校が輩出した人物を語るとすれば、一人の天才の名を挙げるだけで十分であろう。     
 日本野球史上の伝説に名を留める投手、球聖・沢村栄治。「京商」の名を天下に知らしめたスーパーヒーローである。全米選抜軍と互角以上に戦い、1対0(ゲーリックのホームラン)で敗れた逸話は余りに有名であるが、在学中の記録、対京都第一工業学校戦でたてた「奪三振23個」の記録は沢村の天賦の才を余すところなく伝えている。三度目の応召に応じ、昭和十九年十二月・台湾沖に戦没した。今日の野球の隆盛を重ねて想うと、天才の辿った生涯があまりにも痛ましい。この沢村を慕って京商の門をくぐった後輩・中尾碩志(巨人・投手)は戦後、第一回「沢村賞」受賞の栄に浴した。現役記録「209勝27敗」も赫々と球史に輝いている。
 「京商」も時代トレンドには逆らえず、今は「京都学園高等学校」と名を改め懐かしい「バンカラ男子校」の伝統を離れ、男女共学のフツーの学校になってしまった。
 近所野球史に一言添えれば、このエピソードが絶対に欠かせない。
 昭和二十三年の春。第一回全国選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)は京都勢二校の優勝争いとなった。「一商」と「二商(学制改革で西陣高校・廃校)」、宿命のライバルの隣同士・甲子園決戦である。両校共に「西大路」通りに面し、直線1.5kmで繋がっている。メッツ対ヤンキースの「地下鉄決戦」を文字って言えば、この対決は「西大路決戦」であった。勝負は両者譲らず延長戦となり、十三回、0対1で「二商」が涙を呑んだ。
 まだ、小学生だった私の記憶にも、あの日あの時の、周囲の尋常ならざる騒然とした興奮のザワメキが鮮やかに残る。

 花園大学。禅宗臨済宗・妙心寺派本山が経営するミニ大学で、正直「知名度」も低い。大学昇格は戦後(1949)で新しいようだが、前身は明治初期創設の[般若林]に遡り、旧い。京都には仏教系大学が数多いが、意外にも禅宗系大学(四年制)は「花園大学」が全国で唯一ここだけ、貴重な大学である。「教室の勉強で禅の悟りが開けるものではない」と言ってしまえばそれまでだが、禅の思想、座禅、多彩な禅文化(建築・庭・茶道・能楽・書道・絵画など)等、日本文化にトータルで深い影響を及ぼす「禅宗」を専門的に研究し、学び教育する施設が全国で一つだけと言う事実は案外、知る人が少ない。
 観光聖地・京都の中でも「禅」関連の観光スポットは定番・人気メニューのひとつ、関心も高いはずだが、やっぱり庶民レベルでは「金閣・銀閣・龍安寺」の三点セット見物で十分。底が浅い、ということだろう。そんな御仁の耳には「かーッつ」と裂ぱくの気合も届きかねる。

 大将軍学区の東どなり、「仁和(にんな)小学校」と北東にある「翔鸞(しょうらん)小学校」は番組小学校の伝統を引く。仁和は二つの番組小学校(上八番、上九番)が統合され、「仁和」となった。御室・仁和寺へ通じる街道の傍に敷地を得たため「仁和」と命名したと思う。
 「翔鸞」は上三番小学校として誕生、ほぼその区域を継いで今日にある。瑞鳥・鳳凰の雛を「鸞」というそうである。小学校の名前にしてはやや、過ぎたる感もあるが、当時の町衆の期待の熱さが伝わり、ほほえましい。
 チョット珍しい話を紹介すると、番組小学校が誕生した初期の頃、学校には「教育」の場意外に色々な機能がくっついていた。区役所・消防・交番・保健所・気象などである。今風にいえばミニ「総合庁舎」といったところか。玄関には「屯所」があり、建物入口には「区役所窓口」が設けられていた。大屋根の上には、「火の見櫓」があり、「半鐘」と時刻を知らせる「太鼓」がのっていたそうである。
 京阪電車・三条駅の地下駅を地上に出て、南東の方向を向くと屋上に風変わりな櫓がのった建物が目に入る。「有済小学校」である。「防火櫓」を残す唯一の小学校、東山を背景に明治の風景の名残りに出会う。

 この稿の資料を求めて、久々に母校(山城)を訪ねた。三中OBの文集を繰っていて、ケシカラヌ話を見つけたのでご披露したい。
 足利家菩提寺、「等持院」の霊光殿には歴代の十四将軍(「五代」を欠く)の木像が安置されている。当時の五中在校生の「剛の者」数名が忍び込み、「将軍の首実見」と称して、「抜ける首・抜けぬ首」と引っ張り試した事件があったそうだ。狼藉が露見してエライ騒ぎになった由、アタリマエであろう。この木像は、幕末にも尊王派志士が三将軍「尊氏・義詮・義満」の首を持ち去り、三条川原に晒したという歴史的?実績がある。よくよく、受難の相があるようだ。


(補 足)
イ、京都・四条通りの繁華街に近い所、「御幸町高辻上る」の開智小学校(下11番組小学校)が廃校となり「京都市学校歴史博物館」に衣替え、公開されている。日本最古の(番組)小学校誕生当時の様子を伝える興味深い資料や戦前・戦争直後の珍しい資料も保存されている。設立当初の授業内容(四年制)は驚くほど「レベル」が高い。無事、卒業した生徒が如何ほどあったのか。

ロ、京都の小学校の多くは絵画・工芸の蒼々たる大家の作品を少なからず所蔵している。学校OB・町内在住の縁を持つ大家から寄贈を受けたものである。竹内栖鳳(城巽)上村松園(元竹間)・西村五雲(元本能)・榊原紫峰(錦林)山口華揚(格智)・冨田渓仙()・宇田荻邨(大将軍)・菊池契月・木嶋桜谷(以上明倫)・北大路魯山人()・近藤悠三()などなど。かかる作品を小学校が多数保有しているのは京都独特であろう。

ハ、本文中に記したが、「三大蚕糸学校」は京都、東京、長野の三箇所に設置された専門学校を言うが、東京高等蚕糸学校は現在の「東京農工大学」、上田高等蚕糸学校は現在の「信州大学繊維学部」である。「京都高等蚕糸」の学業期間は当初、本科二年で後三年に延長(明治三十八年)された。ユニークな話として、明治四十一年から大正四年の間、「女子部」が設置されていた時期があった。何ゆえ「廃止」になったのかは不明だが、女子高等教育機関の草分けではなかったろうか。

ニ、「近所の学校」の卒業生を一括りにして見ると思いの他、多彩である。
 野球界では、「沢村、中尾」の他、往年の阪神の名捕手・徳網茂(京商)、同じく阪神監督:吉田義男(山城)など。サッカーでは山城は名門校、右、代表は釜本邦義。兄弟で全日本キャプテンを勤めた、柱谷兄弟(幸一・哲二)は京商出身。京商在学
 中の自宅はすぐ近くにあった。映画・芸能界も多彩である。田村高広(三中・前出)「君の名は」の佐田啓二(二商)、山城新伍(山城)。名カメラマン:宮川一夫は京商出身。腹話術で活躍した川上のぼる(三中)、司会・映画評論の浜村淳も山城高校出身である。西陣育ちの「都はるみ」は洛陽技芸女子学校(現・洛陽総合高等学校)を出た。イラストレーター他、何でもこなすマルチアーチスト・三浦じゅんは大将軍小学校。母上はわが女房の知人。息子さんの仕事のことは「良く知らない」、と言ってられる所が愉快である。
 近所出身の俊才もご紹介しておこう。弁護士・推理作家:和久俊三氏は大将軍のご出身、その弟君は今、最高裁判事である。旭化成工業(株)元社長弓倉礼一氏(三中・田村高廣と同期)のお宅は真向かいにあった。懇親会の会場などでお会いすると、決まって「この子はヨチヨチ歩きの時からよくよく知ってるんだヨ!」と満座の中で華をもたせて頂いた。

ホ、京商設立頃に名物教師がいた。学監の横地石太郎。夏目漱石の「ぼっちゃん」に登場する“赤シャツ先生”のモデルと言われた。「京商」に三年勤務後、松山中学を経て山口高商教授。

ヘ、維新後の京都をピンチから救った功労者の中、「山本覚馬」の事跡は余りにも大きい。西郷がその人物・識見を認めた覚馬が薩摩藩・獄中で書いた日本近代化・展望意見書『管見』は明治政府要人が注目し、岩倉具視の強い勧めで新政府に協力した。後、京都府顧問として、京都近代化に尽くしたが、混乱の時期、覚馬という人物が京都に存在した幸運を思わざるを得ない。京都府議会・初代議長。同志社創立の大恩人でもある。妹・(山本)八重子は会津城攻防戦で奮闘。後、洗礼を受け、新島譲夫人となった。

ト、近所の知識人(特記すべき先生のみ)。
 澤潟久孝(おもだか・ひさたか)。等持院南町。「万葉集」研究の第一人者。元京都大学名誉教授。
 上田弘一郎。大将軍一条町。「竹博士」として著名。竹の有用性を説き、全国組織(全国竹の会、竹文化振興会など)を主導するなど竹研究の第一人者として活躍された。元京都大学名誉教授。
 和崎洋一等持院西町。文化人類学者。天理大学、富山大学、朝日大学で各教授。今西錦司・門下で永年アフリカで研究。公的業績は「スワヒリ語辞典」(日本最初)編纂など。
               以上、故人。
 チ、和崎先生とは一時期、密度の濃い交流があり、事の外思い出が多い。学者と称するよりも豊富な知識量をベースにしたユニークな強いオーラを振りまく多才且つ痛快な人物であった。氏の居宅には常に数名の常連がタムロし、小サロンの体をなしていたが、何時しか私(高校生)も末席にくっついていた。好奇心旺盛、多感な年代であり、大いに啓発された。特に、知識には境界が無く、知識は総合的に応用し、使いこなしてこそ有用で楽しい、という事を教わったように思う。氏から得たかかる「認識観」はややオーバーに言えば私の生涯の財産であり事実、私の考え方に多大な影響を与え続けていると思う。

 リ、本文最後のくだりの「有済校の櫓」と「学校博物館(旧・開智小学校)」(補足・イ)の正門・石垣がこのほど「重文」申請された。来年の今頃は間違いなく「重要文化財」に指定されているだろう。


* (既稿・そのニ)の話の中、二商のプールに関する記述に誤りがありました。「昭和10年前後」との年代記述は間違い。本稿内で訂正させて頂きました。
 

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