いちもん 第54号 掲載作品 前の作品へ 次の作品へ 目次へ
  時を見つめて
中田  薫  



 NHK放送博物館の入り口左側に、大きな古時計が置かれている。全高一七五センチ、幅五〇センチの胡桃製の外函は、渋い焦茶色に塗られている。前面上部に打ち込まれた真鍮の銘板には「自動制御時計」の文字が浮き出し、鈍い光を放つ。
 昭和十四年の沖電気製である。昭和三十五年までの二十一年間、内幸町の放送会館で標準時計として時を刻んできた。
 テレビ五十年の改装にあたって、館のシンボルとしてこの時計を整備することにした。
 いまでは数少なくなった時計職人にすべてを託す。
 苦労は振子を吊っている取り付け部分にあった。幅五ミリ、長さ六ミリの板バネが平らに二枚並んでいる。厚さ〇、二ミリで、これ以上厚くても薄くてもいけない。ペラと呼ばれるこの部分は、振子時計の心臓部である。二枚の板バネは両端を真鍮の小片にカシメて一体化しているが、カシメる力が程良くないといけない。締めすぎると、振子が直線上を動かず、長い「8」の字を描いてしまったりする。
 安定した動きが見事に再現されたのは、内覧会前日の夜のことである。長さ百十センチの振子の往復はちょうど二秒に調整されている。ゆったりとした動きを見ていると、開館までの忙しさが夢のように思えてくる。

 標準時計は時針を持っていない。秒針に連動したカムの作用で一秒ごとにパルスを発生させ、それを放送局内の各装置に送り出す。その信号によって、時報装置やアナウンスマシンが動く。
 とりわけ「ぷっぷっぷっ・ぽーん」のあの時報を正確に放送するために、この標準時計の役割はきわめて重要である。天文台から送られてくる精度一、〇〇〇分の一秒のデータは、時計室に置かれた恒星時と平均太陽時クロノメーターの指針と照合され、標準時計の誤差を修正する。そしてこのネットワークに組み込まれた報時時計が音叉発振器を動かし時報を発生させるのである。

 日本で最初の報時放送は、すでに東京芝浦の仮放送所時代に始まっている。アナウンサーが「九時三十分をお知らせします。ただいま三十秒前、二十秒前、十秒前、あと五秒、はい! ―――お知らせしました時刻は九時三十分でございます」というふうな調子だった。
 このアナウンス中の「はい!」の代わりに中国製のドラを叩いたという記録もある。仮放送所から愛宕山の局舎に移るわずか四日間のことである。芝浦と愛宕で二日間ずつ使われたこのドラは、いまも放送博物館に保存されている。
 ドラに代わって使われたのが管鈴(チューブラー・ベル)である。そのころ、天体観測による「時」の情報は、逓信省の銚子無線電信局から毎日午前十一時と午後九時に発信されていた。それを受信した技術部の時報担当技師が、放送局のクロノメーターを修正して標準時を割り出し、ストップウォッチに移してアナウンサーに渡す。ストップウォッチを受け取ったアナウンサーは、例の調子で秒読みをし、報時すべき時間が来ると木槌を振り上げカーンとばかりに管鈴を叩いた。その写真を載せた当時の新聞は、こんなキャプションをつけている。


「アナウンサー松田義郎氏が木槌を以て管鈴を打ち時を知らせる所、目で見て叩くのですから誤差がありますがそれは半秒以内との事です」
 日本でラジオ放送が始まった翌年大正十五年に東京放送局に入った加藤倉吉氏によると、時計を合わせるときにまず誤差が出る。管鈴を鳴らすときに誤差が出る。それにストップウォッチそのものの誤差が加わる、といった具合で、一秒程度の誤差は当たり前だったという。
 このことに興味を持ったアマチュアがいた。毎回の誤差を計り六日分を表にした「JOAK報時誤差報告」なるものをハガキで送ってきた。発信人は根岸信号所長坂東英造と厳めしい。調べてみると、知る人ぞ知る歌舞伎の坂東彦三郎その人なのだった。「+」は「早スギ」、「−」は「遅レ」と注釈がある。
 五月十六日( − 〇、一七)
   十七日( + 〇、一四)
   十八日( − 〇、〇三)
   十九日( + 〇、一一)
 一〇〇分の一秒まで正確に計るのはなかなか大変なことだが、学者レベルと自負する測時技術を、趣味人らしく誇ったのであろう。
 この坂東彦三郎丈と根比べをした時報担当技師の加藤倉吉氏は、昭和四年、北村政治郎技術部長から新たな報時装置の開発を命じられる。「自動的に時報を送出する、精度プラスマイナス十分の一秒の装置」というのが課題だった。東京天文台の橋本、宮地両技師の指導を得ながら、粒々辛苦三年の歳月を費やし、ようやく形になったのが昭和七年も押しつまった暮れのことである。

 加藤技師の先見性は、時報の送出音に四四〇ヘルツ(当時はサイクルと言っていた)の標準楽音を使ったところにある。それまでの報時はいかに精度を確保するかが最大の課題だった。それに比べ「時報という番組」にとって最大の演出要素であるはずの「報時音」については、ほとんど関心がなかったといっていい。
 標準楽音を使えば音楽教育に大きな役割を果たすことになるはずだ、と加藤技師は考えた。当時、楽音「ラ」の標準は四三五ヘルツとするのが一般的だったが、演奏家や音楽理論の専門家に意見を聞きながら、将来予想に立って四四〇ヘルツを採用したのである。絶対音感の持ち主ならともかく、音楽愛好家にとって、バイオリンなど弦楽器のチューニングや合唱の際の「音とり」には標準音がどうしても必要である。多くの場合小型の音叉を使うが、いつも持ち歩くわけではない。そんなことも加藤技師は考えたのではないかと思える。
 標準楽音による報時装置が動き始めたのが昭和八年の一月一日。アメリカの標準時放送専門局であるWWV無線局が四四〇ヘルツの基本周波数放送を始めたのがその年の四月一日だから、先進国アメリカに先立つこと三ヶ月ということになる。
 六年後の昭和十四年、ロンドン国際会議で標準音のピッチとして四四〇ヘルツが採用され、すべての音楽の演奏にこれを使うことが決定された。さらに下って戦後昭和二十六年、文部省は、NHKの時報音を音楽教育の標準として使うよう全国の教育現場に通達を出している。報時放送は「最も短い教育番組」と言ってもよい。
 加藤技師の報時装置は次のような仕組みである。

 標準時計の秒針に付けた専用の歯車でスイッチの接点を制御し、一秒おきに一秒間の電流を流す。その電流によって次の小さな時計が動く。この時計には定速回転するホイールが内蔵されていて、一秒以上の誤差を「削り取る」。さらに高級写真機に使われるシャッターを利用した精密補正器を通すことによって、一秒以下の誤差が正される。ここまでが、正確な時刻を得るための流れである。
 そして加藤技師が自ら「愉快でならない」と振り返る世界初のあの標準楽音による報時放送が自動的に放送される。
 報時三分前、精密補正器からの信号で報時時計が始動する。これに連動する配分器が、秒音・予告音・零秒音用の三種のスイッチを従えて待機する。


 報時放送は、報時時刻零秒の四〇秒前から始まる。秒音スイッチが有線電信用のサウンダーを動かし、一秒ごとにカチカチという時計音を発生させる。三二秒前、三一秒前、三〇秒前の三回はピアノの打鍵による予告音である。これは特製の電動ピアノの鍵を電磁石の力で動かす。「ボン・ボン・ボン」と標準音の一オクターブ下の「ラ」音と二オクターブ下の「ラ」音を同時に叩く。ふたたび一秒ごとのカチカチが続く。次の予告音は二一秒前と二〇秒前に「ボン・ボン」と二回、最初と同じピアノの打鍵音である。さらにカチカチ音をはさんで一〇秒前に、最終の予告音が一回だけ「ボン」と鳴る。いよいよ零秒の報時である。カチカチ音を九回数えたあと、電動ピアノの打鍵により「ポーン」という報時音が鳴らされる。これが四四〇ヘルツの標準「ラ」音である。
 記念すべき第一声は、昭和七年十二月二十九日十一時五十九分と記録されている。加藤技師によれば「聴取者の耳にお近づきの」意味と「お稽古」をかねて、暮れの二十九、三十、三十一の三日間、それぞれ十一時五十九分を報時したのである。実験時のままのバラック装置だったこと、あちこちに散在するスイッチやダイアルを手順良く操作できるのは「生みの親の自分一人」とあって、「身震いしながらの永久に忘れ得ぬ緊張であった」という。
 聞く方にもそれなりの興奮があったかもしれない。
 手元の時計を見ながら待ち構える。ボン・ボンというピアノ音の回数が十秒ごとに減っていく。(あと五秒だ・・・)
 ―――胸の高まりが聞こえるようではないか。



 時報記録簿というものがある。クロース張りで、皮背表紙に金文字を打ち込んだ堂々たる製本である。上質紙に一日一ページずつ、日本標準時とNHKの標準時計が指示する時刻との差が書き込まれている。
 この頃NHKは、正午と夜九時半の二回、時報を出していた。それぞれ直前の午前十一時と午後九時の五分前から一分ごとに誤差を測定し、補正を加えてその時を待ち、最後には送出した時報と標準時の差を確認したのである。丹念に書き込まれた数字からは「時の精度」の確保に細心の注意を払った担当者たちの熱い想いが伝わってくる。
「昭和十年四月十一日十一時、標準時計指示十時五十九分五十七秒八八、誤差ノ平均二、一二秒遅レ、完全補正値二、一二秒、補正器の指度十四度、放送時報の誤差〇、〇三度早過ギ」
 書き込みには加藤技師のサインもある。報時の誤差はほとんどが十分の一秒以内に収まっている。
 この年九月に発行された東京天文台報第三巻第三冊は別冊に、国際報時所の宮地政司氏の「JOAKの報時の精度」というリポートを掲載している。
「JOAKの報時(正午及午後九時半放送)は、昭和八年の始、放送局技術部の加藤倉吉氏の考案になる自動装置が完成し、以来その正確度は非常によくなった。従ってこの報時利用は各方面に渉り、特に星の掩蔽、日食の場合等天文学自身にも貢献する所が少なくない状態である」
 と報時放送が多方面に利用されていることを紹介し、三鷹の国際報時所で受信した結果を印字紙に打ち出して、表にしている。分析結果を見ると、逓信省船橋無線電信局(JJC)の報時により補正したJOAKの正午の時報は、平均誤差がプラスマイナス〇、〇四五で「報時としては優秀な方である」としているが、「カチカチ」という予備信号は「ポーン」という本信号と〇、〇九秒ずれていて「耳と目の方法による受信の際は頗る困惑を来すものと思はれる」ので速やかに改良すべきであると指摘し「かかる希望が達せられたる暁には、JOAKの報時こそ最も簡易に受信出来るため、大衆的報時であると同時に、専門的にも広く利用される事が可能であらう」と結んでいる。
 こうして「精度プラスマイナス十分の一以内の装置」という課題は見事に達成され、天文観測の立場からも評価を受けることになったのだ。

 昭和十四年五月、東京市麹町区内幸町に「ラヂオ文化の殿堂」として放送会館が完成し運用を開始した。地下の恒温室に親時計を置き、天文台の時報を傍受して本館の親時計を較正、時報を放送するときには報時時計に正確な時刻を移し、報時用のピアノを動作させるというシステムが確立した。
 その後、予告音は三十秒前からになり、戦後昭和二十五年にはさらに短くなって、報時直前の五十七秒から四四〇ヘルツで「ぷっ・ぷっ・ぷっ」と一秒ごとに三回の予告音を出したあと、正時に一オクターブ上の八八〇ヘルツで「ぽーん」を打つという現在の形に改正された。ピアノ音の代わりに音叉を使うようになって小型化したため、時報専用のスタジオも他の番組に明け渡すことになる。

 音叉は、ピアノを叩くようにリレーを使って槌で叩いていたが、一定の振幅を出すようにすれば、中継線の特性を監視するのにも便利だというので、音叉を電流で発振させ真空管で増幅し放送するようになった。
 昭和二十六年二月二日の「サン写真新聞」は、見開き二ページで報時装置の特集を組んでいる。その中に報時装置の生みの親である加藤倉吉氏の写真がある。「ぽーん」と零秒を打つ瞬間の子時計の文字盤を見上げる横顔に「二十二年間 時計とにらめっこしている加藤さん」というキャプションがつけられている。地震のたびに、乱れた振子の調子を直すため円タクで愛宕山に駆けつけ「地震加藤」と呼ばれた男の、時を見つめる厳しい目がそこにある。
 昭和三十五年から水晶時計が使われるようになり、四十八年にはルビジウム原子発振器がNHKの時計を動かすようになった。ルビジウム発振器は、誤差が一、六〇〇年に一秒という超高精度を誇る。さらに平成元年に時計装置を更新し、現在に至っている。

 いまNHKの時報放送は、どの位の数が放送されているのだろうか。
 ラジオ第一放送では、毎正時に放送するというのが原則である。スポーツ中継や国会中継など、正時をまたぐ長時間番組の中では「上のせ」で送出している。一日に二十四回、一週間では百六十八回ということになる。
 ラジオ第二放送とFM放送の場合、番組中は時報を放送しないことになっている。ラジオ第二放送は、五時半の「音の風景」で始まり深夜の高校講座で終わるので、正時は一日二十回(日月は十九回)だが、正時をまたぐ番組が週に二十九本あるので、これを引いて百九回。終日放送のFMは長時間の音楽番組が多く、週四十二カ所で正時をまたぎ、放送回数は百二十六回になる。これら三つの音声波だけで、時報は週に四百三回、年に二万回以上送出されていることになる。
 時報放送は、毎正時の五秒前から始まり三秒後に終わる「もっとも短い番組」である。しかし、その正確な時刻信号を使って、テレビ四波、ラジオ三波の番組切替が行われ、ルビジウム発振器の五メガヘルツからは、テレビの同期信号や音声の基準信号が作られる。時報はまさに放送の基幹部分を支えているのである。

 博物館一階エントランスの床に西陽が長い影を描く頃、閉館を知らせるチャイムが鳴る。振子の原動力である高さ五、五センチ直径七センチの重錘(おもり)は、振子の先端近くにまで降りてきている。掌中に小さなクランクを握って自動制御時計の前に立つ。秒針の陰に突き出した巻き上げ軸にクランクを嵌め、左方向に回転させるとコリコリという小気味の良い音とともに重錘が上がってくる。
 カムの動きを点検し、振子の先が直線上を動いていることを確かめる。直径十五センチの丸窓に六十秒の目盛りを刻んだ鉄板製の文字盤を元の位置に戻し、前面の蓋を静かに閉じる。ていねいに面取りを施したクリスタルガラスが、白い秒針を引き立てる。前蓋の側面にあけられた小さな鍵穴に、ふと胸を衝かれる。時計担当の技師が何度も触れたのであろう、その周りだけニスが剥げている。精度を上げるため何度も調整したからには他の誰にも触れさせない、その心意気が手の跡となって残ったのだ。
 第一展示場「放送のあけぼの」の入口はすでに照明が消え、闇にとけ込もうとしている。広いロビーには人影もない。時を刻む音だけが静かに流れていく。
(2003.04.17)
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